On the Waters

帆船のことや、ヨットのこと

ナンシイ・ブラケット号「海へ出るつもりじゃなかった」のゴブリンのモデル

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アーサー・ランサムが、ラカンドラ号の次に手に入れたクルーザー。彼の一番のお気に入りの船だったと言われています。

ナンシイ・ブラケット号の概略

Nancy Blackett

ナンシイ・ブラケット号は、バミューダリグのカッターで、バウスプリットを除いた全長は28フィートです。1931年に建造されました。「ツバメ号とアマゾン号」の成功により余裕ができたランサムが、1934年に購入し、「ツバメ号とアマゾン号」シリーズのメインキャラクターから名前をとって "Nancy Blackett" と名付けました。「海へ出るつもりじゃなかった」と「ひみつの海」に登場するゴブリン (旧訳では、鬼号) のモデルとなった船です。ランサムは、ナンシイ・ブラケット号でイギリス東海岸沿いや北海で帆走していたとのことで、その時の経験が作品に反映されています。現在では、ナンシイ・ブラケット・トラストが、ナンシイ・ブラケット号を所有し、運営しています。

Nancy Blackett Trust

ナンシイ・ブラケット・トラストは、イギリスのチャリティ団体で、1997年に、世界中のランサムファンから寄付を募り、ナンシイ・ブラケット号を購入しました。イベント等で一般に公開すると共に、トラストのメンバーへナンシイ・ブラケット号でのセーリングの機会を提供しています。トラストでは、安全に考慮しながらも、できる限りオリジナルの外観を保ったままナンシイ・ブラケット号を保存しているとのこと。その言葉通り、デッキ周りを囲うライフラインがありません。ゲストを乗せるにあたってはかなり負担となるはずで、トラストの姿勢とそれを支えるボランティアには、感服してしまいます。20世紀前半の古い船を維持するだけでなく、操船技術もちゃんと伝えていけるというのは、本当に素晴らしいし、うらやましい。

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トラストへの加入方法や乗船申し込みについては、Webページをご参照ください。

www.nancyblackett.org

Woolverstone Marina

ナンシイ・ブラケット号は、オーウェル川の川岸にあるウルヴァーストンマリーナに係留されています。ウルヴァーストンマリーナへは、イプスイッチ駅からバスで20分、バス停からさらに1マイルほどです。 ゴブリンのホームポートであり、アルマ荘と「酒だるとカキ亭」のあるピンミルは、マリーナから川沿いに2キロほど下ったところです。ランサム自身もナンシイ・ブラケット号をピンミルに置いていました。「ひみつの海」の舞台であるWalton Backwaters は、ピンミルから近く、ランサムはナンシイ号でよく訪れたそうです。

ナンシイ・ブラケット号とゴブリン

架空の場所が舞台となっている湖水地方の物語とは異なり、「海へ出るつもりじゃなかった」では、実際に存在する場所が舞台となっています。物語に出てくる地名も海上のブイも、地図や海図で確認することができます。そして、ゴブリンも現実のナンシイ・ブラケット号そのままなのです。

内装

「ねぇ、ちょっとのぞいてみて。」と、ティティがいった。
三人は、小さな船室をのぞきこんだ。右舷と左舷に青いマットレスの寝棚。ひもで海図をおさえつけてあるテーブルが一つ。寝棚の一つには毛布の筒ひとつが、もう一つの寝棚には、霧笛がおいてあった。小さな白い流しは、よごれた皿やマグやスプーンの山。その真向いの小さな調理台の、バーナーが二つついている料理用ストーブの上で、なべのお湯がシュンシュンいっている。
「海へ出るつもりじゃなかった」1章 もやい結び

"I say, just look down," said Titty.
They lookied down into the cabin of the little ship, at blue mattresses on bunks on either side, at a little table with a chart tied down to it with string, at a roll of blankets in one of the bunks, at a foghorn in another, and at a heap of dirty plates and cups and spoons in a little white sink opposite the tiny galley, where a saucepan of water was simmering on one of the two burners of a little cooking stove.
"We didn't mean to go to sea" Chapter I Bowline Knot

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テーブルをはさんで、両舷に青いマットレスの寝棚。前部船室にも2つ寝棚があり、船室の間はカーテンで仕切れるようになっています。船内図によるとジョンとロジャは主船室、スーザンとティティは前部船室でした。この写真は主船室の左舷側なので、ロジャの寝棚です。

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前部船室。ベージュの布は、船が傾いた時に置いてある物が滑り落ちないようにガードするためのものです。ランサムの船内図には描かれていませんが、この写真の左奥、バウにトイレがあります。手押しポンプ式。

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操舵室から船室に降りる階段の左側に流し、向かいに料理用ストーブがあります。写真は、メイトのアンディが昼ごはんのサンドイッチ用のベーコンを焼いているところ。バーナーは二つでオーブンはなし。ランサムは1938年にナンシイ・ブラケット号を手離したのですが、それは、奥さんのエヴゲーニアには、ナンシイ・ブラケット号のギャレーは狭すぎたためとのこと。もしもこの船でコックをやるとしたら、私もこの点はエヴゲーニアに賛成。

「それから、ほら、寝棚の下があくの。」と、スーザンがいった。「とても大きな戸棚になってる。」
「海へ出るつもりじゃなかった」3章 ぼくたちは、みんな、約束した

"And look how the backs of the bunks open," said Susan. "Huge cupboards behind."
"We didn't mean to go to sea" Chapter III We've all promised


寝棚の下にも収納庫はあるのですが、ここでスーザンが開けて見せたのは、寝棚の後ろ。それぞれの食器の定位置が決まっています。

デッキ上

セール

帆は、本に出てくる通り、メンスル、ステイスル、ジブの3枚。帆の形式もシート取り回しも、ほとんど変わっていません。

操舵室

四方を壁に囲まれたこじんまりとした操舵室は、とても居心地がよく安心感があります。

変わったところ

ランサム時代から、少しだけ変わっているところもありました。自分の覚え書きのために、書いておきます。

リーフィング・ギア

さあ、リーフィング。それには、メンスルのハリヤードをゆるめて帆をおろしながら、小さなクランクをまわして、ブームを回転させ、帆をまきおさめなくてはならない。
「海へ出るつもりじゃなかった」12章 船酔いのくすり

Now for reefing. He had to ease off the main halyard while he turned the little crank and wound the sail down on the revolving boom.
"We didn't mean to go to sea" Chapter XXII A Cure for Sea-Sickness

ゴブリンといえば、リーフィングのためのクランクが印象的ですが、現在では、残念ながらリーフィング・ギアは使われていません。リーフ (縮帆) は一般的なやり方 (帆の下端を折りたたむ) です。どうして、リーフィング・ギアを使わないのかスキッパーに尋ねたところ「その方が簡単だから」とのことでした。下の写真では、ブームの根元にギアが見えています。そして、しんちゅうのクランクはチェインでブームからぶらさげてあります。「海へ出るつもりじゃなかった」で、ジョンがクランクを海に落としそうになるハラハラするシーンがありますが、これなら心配はないですね (クランク使わないけど) 。

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ファーリング・ジブ

それから、あえぎながら立ちあがって、また、かがみこんだかと思うと、足もとのなにかをひっぱった。すると、窓のブラインドのように、ジブがひとりでに巻きあがるのが見えた。
「海へ出るつもりじゃなかった」1章 もやい結び

He stood there panting. Then he stooped, and pulled on something at his feet, and they saw the jib roll up on itself like a window blind."
"We didn't mean to go to sea" Chapter I Bowline Knot

「海へ出るつもりじゃなかった」では、ジブを巻くためのファーリングロープをバウで操作している描写が描かれているのですが、現在では、ファーリングロープはコックピットまで通してあります。余談ですが、私はこの訳文を読んで、ファーリングジブというのは自動で巻きあがるものと思い込んでいました。そのため、初めてファーリングジブを装備しているヨットに乗せてもらって、ファーリングロープをひっぱらないとジブが巻きあがらないことを知った時には、大ショックでした。この当時、ファーリングジブはまだ目新しかったのかしらと調べてみたところ、ファーリングジブのシステムは1907年にイギリスで特許登録され、1940年代後半にはイギリスのクルーズヨットでは一般的になっていたとのこと。「海へ出るつもりじゃなかった」のタイミングでは、ちょうどファーリングジブがひろまっていく初めの頃といったところでしょうか?

エンジン

「エンジンがある。」階段の下をのぞきこんだロジャが、思わずさけんだ。
「海へ出るつもりじゃなかった」1章 もやい結び

"There's an engine," exclaimed Roger, looking in under the steps.
"We didn't mean to go to sea" Chapter I Bowline Knot

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ロジャにとっては残念なことに、現在では船室からはエンジンは見えません。また、当時は船室まで降りてエンジンをスタートする必要がありましたが、今はヘルムのところでエンジンを始動することができます。写真は、操舵室の床を開けてエンジンの確認をしているところ。

錨の巻き上げ機

巻きあげ機の二本の円筒には、ちょうど柱にロープを巻きつけたように、鎖が巻きついていて、そこから船内のチェーンロッカーへ下がっている。鎖は、デッキのチェーンパイプから出てきているのが見えた。

A lot of the chain was coiled this way and that round first one and then the other drum of the windlass, like rope belayed on a cleat. The rest of the chain was in the chain-locker below. John could see where it came up through a chain-pipe in the deck.

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錨の巻きあげ機は、現在はついていません。チェーンパイプはありました。このパイプから、鎖が吹き出すようにあがってきたんですね。こんなせまいところで転んで、ジョンはよく船の外に落っこちなかったなぁ。

あまりにマニアックなので、これくらいで。

物語の世界

2017年9月と2018年7月の2回、ナンシイ・ブラケット号に乗船させてもらいました。初めて実際にナンシイ・ブラケット号に触れた時、ランサムの理想の船ってこういうのなんだなぁとしみじみと納得して、それが一番嬉しかったです。物語の世界が現実にリンクした、最高の瞬間でした。